ようやく今日から全校生が一同に登校して、学校生活を始めることができました。振り返れば、ここ数ヶ月は、学校にとって節目、節目に行う大事な行事も、みなさんが楽しみにしている恒例行事も、軒並み中止しなければならなくなり、HR開きも、授業開きもできないままで、時が容赦なく過ぎていくという学校史上ありえない状態でした。
今日、このように学校が再開できて、みなさんたちに会うことができて、そして、授業ができるということはとても嬉しいことです。私たちは、教員であっても、職員であっても、みんな学校が好きです。生徒たちが好きです。生徒たちと一緒に過ごすことが好きです。だから、教育現場を選び働いています。その好きな仕事が思うようにできないこの期間は、とても苦しい時間でした。みなさんの安全と、学習をする権利を保障するためにはどうしたらよいか戸惑いながら、試行錯誤を繰り返す日々を経験しました。
もちろん生徒のみなさんも、困ることが随分多かったことでしょう。休みが長引く中で、勉強は大丈夫だろうかなど不安になったこともあったでしょう。特に受験を控えた高校3年生の不安は殊更ですし、新入生は入学式やガイダンスもないままですから不安は当然です。気晴らしにふらっと出かけたくても、「不要不急の外出制限」は、自由な行動にブレーキをかけ、気づかぬうちにストレスがたまり、イライラした人もいたはずです。それでも、みなさんはよく我慢強く頑張ってくれました。
ところで今回の事態は、「誰も予想できない」「経験したことのない」「先が見えない」「誰もが正解を出せない」「常識が覆る」事態でした。未知の世界に放り出されたわけです。その様な環境の下で、誰もが手探りで、事態の悪化を防ごうと必至で考え、行動してきました。今もウイルスがなくなったわけではありません。この瞬間も、感染拡大に対処するために、世界中の人々が苦しみながら、考え、行動しています。第2波への対策も必要です。
私はこの間ずっと、何度も何度も、自問自答してきた聖句があります。それは今週の聖句の箇所である「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」問い部分です。練達とは物事を深く理解する力と解釈してください。この聖句の忍耐と言う言葉に注目してください。ここでの忍耐は、ただ黙って耐え忍ぶという消極的なものではありません。「強い意志を持って苦難に立ち向かう姿」として捉えます。「神は乗り越えられない試練はお与えにならない」と言う有名な聖句にも繋がります。どんな人の人生にも苦難や試練は大なり小なりあります。その時、「私にはどうすることもできない。」と思うのではなくて、この苦難や試練は、私や私たちに何を求めているのか。私や私たちは、何を成すべきなのか。もしも、この苦難や試練が私や私たちの愚かさへの警鐘であるとしたならば、これからは何を改めればよいのかに思いを巡らせるのです。そして、苦難に立ち向かう意思を固め、立ち向かう方法を考えるのです。この姿勢がギリシャ語でパウロが書いたこの聖句の「忍耐」です。今回のコロナ禍は、私たち人類に何を問いかけているのでしょうか。私はコロナ禍が終息した時の近い未来が、過去と違う価値観を生み出すことを期待しています。そして、みなさんがコロナ禍を乗り越えた逞しい世代として、知性を身につけ、豊かな感性の持ち主として、未来を作る担い手になられることを願っています。
お祈りをします。コロナ禍にかぎらず、苦難に立ち向かう人々のために祈ります。明日は沖縄戦が終結してから75年目を迎える沖縄慰霊の日です。基地問題にゆれる沖縄に希望の光を与えてください。黒人差別に抗議する人々に希望の光を与えてください。そして子供達の未来に希望の光が届くようにお導きください。この願いを神様の御前にお捧げします。アーメン